片倉小十郎景綱 1557-1615 政宗の懐刀 奥州一の智将  政宗の軍師

小十郎は代々片倉家の当主が名乗った名前である。
がしかし単に片倉小十郎といった場合は 片倉家を起こした初代景綱を指すことが多い

米沢の長井庄神社の神職片倉影重の次男として生を受ける。
生母は本沢刑部真直の娘。異父姉は政宗の乳母の喜多  鬼庭綱元(喜多の異母弟)
は義理の兄に当たる


幼くして両親を失い 歳のはなれた異父姉 喜多に養育される。

幼くして両親を失い20才位歳のはなれた喜多に養育されていたが やがて親戚の
藤田家に養子として預けられた。しかしながら藤田家に男子が誕生したため

また元に戻り再び喜多とともに暮らしていた。主君の輝宗に政宗が産まれると
喜多は政宗の乳母を拝命した。天正年間の初めの頃伊達家の城下町米沢で


米沢大火時の活躍で主君の輝宗に見いだされ徒小姓となる。

大火があり その時の景綱の活躍が 時の主君伊達輝宗の目に止まり徒小姓
として仕えたのが小十郎の活躍のはじまりである。小十郎は 政宗より10歳年上


19歳の時 伊達家の重臣の推挙を得て 9歳の政宗の近侍となる。

であったが彼が19歳の時 伊達家の重臣遠藤基信等の推挙を得て 9歳の政宗の
近侍となった。政宗は当時疱瘡(天然痘)を患ったために 右目を失明しており。

しかも彼の眼球は飛び出しとても 醜い容貌だったようである。そのために
政宗は とても無口で暗い性格になっていたといわれている。周囲の心も

小十郎 政宗を侍医の元へ連れていき つぶれた眼球を大手術

離れかけていたため そこで 小十郎は 政宗を侍医の元へ連れていき
つぶれた眼球を小刀で 一気に抉り出したと言われている。昔の侍というのは

すごいものである。 ついつい当時の麻酔薬はと考えてしまうのは私だけだろうか
話を聞いただけで 怖かっただろう痛かっただろうと 思うのである。

また一方では このころの外科手術といえば 焼いた鉄の棒で幹部を焼ききって
しまうことだったそうである 景綱が 焼いた鉄の棒を 自分の脚で試してから

施術したといわれているので 状況からしてむしろこちらの方が 史実にあって
いるのかもしれない。。 これを契機に 政宗は 一気に 快活な少年へ変貌して


小次郎 政宗初陣の窮地を救う。

いったようである。また1581年政宗の初陣 相馬との戦いの時 敵兵を追って
深追いし過ぎて突出してしまい逆に周りを全て敵に囲まれてしまったらしい

その時 小十郎が 機転をきかして『 我こそは 伊達政宗なり!』と叫んで
敵を引付け 窮地を救ったという逸話がある。。 当時の奥州もまた近隣には

いくつかの強力な勢力が割拠していた 盧名氏(あしなし)であり 佐竹氏
であった 為に騒乱はいつも絶え間なかったのである。政宗は 18歳の時

父輝宗から家督を譲られているが 人取橋の戦いで 輝宗が死亡すると
多くの重臣たちも殉死したことから 伊達家の世代交代は一気に進み


人取橋の戦い後 小十郎政宗の絆 益々深まる。

小十郎との深い絆はは益々深まっていったのである。武の伊達成実(しげさね)
(政宗の従兄弟 )智の片倉小十郎と称された小十郎だったが 伊達のライバル

小十郎 芦名氏を滅亡へと追い込んだ摺上原の戦いで 先陣を務め武功をあげる。

であった芦名氏を滅亡へと追い込んだここ1番の大事な戦いであった摺上原の戦い
では先陣を務めて武功をあげた。 このことから小十郎は武のほうでも相当なもの


政宗 摺上原の戦い後 家臣団を区分け

であったようである。この戦いの後政宗は家臣団を区分けしている。 この時小十郎の
片倉家は区分上は伊達一門ではなく 次席の一家の身分であったが 小十郎が政宗に

とって 特別な存在であることに変わりはな政宗の第一の家臣として 外部からも
認められていたようである。政宗を補佐して 奥州を まとめ上げた小十郎だったが


小十郎 秀吉からの要請 小田原征伐への 早期の参陣を政宗に進言する。

時代はすでに 豊臣秀吉の時代に変わろうとしていた。秀吉から小田原征伐への出陣要請が
送られて来た時 この秀吉の要請に応じて出陣すれば 事実上秀吉に屈した事と同義である

ことから 家中では賛成派反対派に分かれて大きな議論が起きた。が 小十郎は時の趨勢を
冷静に見定め 小田原征伐への早期の参陣を政宗に進言したという。後に秀吉が 小十郎の


小十郎 秀吉の大名への取り立てを 政宗への忠義を理由に断る。

才能を見抜き 三春5万石の大名で召し抱えようとしたが小十郎は政宗への忠義を理由に
断ったとされている。後に徳川家康の大阪の陣が始まったときは 小十郎は病で出陣できず


家康の一国一城令の後も特例として白石城の存続を認められ 代々片倉家の城として存続。

代わりに息子の重長を派遣し重長の活躍がみとめられた結果 家康の一国一城令の後も
特例として白石城の存続を認められ 代々片倉家の城として存続したのである。

死後景綱の人徳を慕った家臣6名が殉死したと伝わっている。